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  • 2016.02.13 Saturday
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8年の歳月を経てメグリメグッて自分のタイムラインで完全に忘れていた自作物をみる衝撃

昨日、仕事仲間と食事をしていて、facebookみたいな
SNSは「麻薬」みたいなものだという話になった。

つまり発信ということであれば、ブログやHPにちゃんと
書いた方が、その時見てくれなくても、検索に引っかかる
ようになれば、その情報が必要な人が必要な時に見てくれる
ようになる。

でも、facebookとかに書き込めば、とりあえず「いいね!」が
もらえて、みんなが見てくれたという実感があり、発信した
達成感というか、気持ちよさが手頃に感じられるので、
手応えのないブログを書くより、ついついSNSに書き込んで、
発信した気になっちゃうだよね〜的な話でした。

そして今日、いつものようにチラチラとfaecbookを見ていると
どうもどこかで見た「図解」を、フォロアーがシェアしていた。

しかも500件近くの「いいね!」がされていて、いくつもの
コメントが付いている。

「ふ〜ん」と思い、よくよくその図解とそれに関する書き込みを注視
してみると…。

なんと、それは僕が8年前にあるブログで書いたものなのでした(笑)

その図解がコレ





ていうか、ワードで作ってますよね、この図(汗)

は、恥ずかしい…。(この頃はイラストレーターを使えなかった)

思わず、その発信者に「ちゃんとイラストレーターで作りなおすので
張り替えてくださ〜い」とコメント入れたくなっちゃったのですが、
その人も出典元を明らかにしておらず、完全にこの図解がひとり歩き
している状態なので、コメントしたところで単なる売名行為になって
しまうので、辞めました(笑)

ともあれ、8年の歳月を経て、メグリメグッて自分のfacebookの
タイムラインで、完全に忘れていた自作物をみる衝撃。

多分コレって、初めて見る建物なのに、どこかで知っていると感じたら、
実際に前世の自分が作ったものだったというような感覚と似ているので
しょうか(笑)

昨日の食事の席での話と相まって、完全なる教訓話になってしまいました。

やはり、手軽さや刹那的快楽より、ちゃんとHPやブログに残るもの
を書けば、長い月日を経ても、今必要な人に、必要な情報として伝わる
ものなのだと。

人生もしかりですね。

よく「未来の子どもたちのために!」とかいいますよね。

でも、それって本当は「未来の自分のために」ってことなのかも知れません。

いま自分たちが作ったものは、未来に生まれ変わる自分のためになるのだと
思えば、人々の人生観ってスゴく変わるかもしれませんね!

そんなわけで、この教訓を活かすべくこのブログ

2ヶ月ぶりに更新してみました。

手応えなくても

がんばりま〜す(笑)

 

マッチョな文明の終焉

何十年ぶりかで『笑っていいとも』のテレフォンショッキング
を見ました。

もちろん、16年ぶりにテレビ出演するオザケンを見るために(笑)

僕より二つ上のオザケン。
特段オザケンの音楽が好きなわけでなかったのですが、やはり
同じ時代に音楽をやっていた者としては、どうしても気になる
存在でした。

というか、当時の僕は、オザケンを直視できなかった。
オザケンを直視すると、その痛々しさが自分の事のように感じて
見てみぬふりをしてしまうのです。

武装したマッチョな兵士たちが戦っている戦場で、ヒョロヒョロ
な体でTシャツ一枚で歌っているような。

そうオザケンの音楽には、意外や意外、私にはとても「戦い」を
感じたのです。

マッチョな文明に対するアンチテーゼ。

それは、僕らの世代共通のテーマとでも言いましょうか。

ほとんどの人が、マッチョな文明を受け入れて、鍛えて武装して
戦場へと出て行く。

そん中、僕はマッチョな戦場へ出ることを拒否して、オルタナティブ
な地下世界へと潜伏する。

一方、オザケンは、マッチョな戦場へ、裸で出て行って、銃弾を
浴びながら歌っている…。

それが、オザケンの痛々しさというか、オザケンは、歌うことによってに
マッチョな世界に戦いを挑んでいたのではないでしょうか。

だから僕は、オザケンが『LIFE』以降、突然のように消えたことに
何ら違和感を感じませんでした。

むしろ自然な成り行きだったのでしょうね。

そして、16年経って、再び社会へ現れたオザケン。
僕も、長らく潜伏していた地下世界から、いわゆる表の社会へと顔を出す
機会が偶然にも多くなって来ました。

『笑っていいとも』が放送された32年間というのは、ある意味、
マッチョ文明の最終章だったのかも知れません。

なんでも、タモリは、『笑っていいとも』が終わって、何がしたいと
聞かれたら、「棚田に行ってみたい」と言ったとやら。

それは、オザケンが再び、裸のままで歌える文明への転換を意味するの
かも知れません。

そうそう、オザケンの次の出演者が、マッチョ文明の復権を目論む
アノ総理であるところが、またとてもシンボリックですよね(笑)

魔女狩りの記憶

SMAP細胞?

初めてネットで見た時、見間違えたのは私だけでしょうか(笑)

しかし、最近の大騒ぎは何なのでしょうかね。
どうも、この話題は、化学の真実がなんたらではなく、人間の
根源的なところを刺激する要素があるのではないでしょうか。

門外漢の私としては、科学的にどうであるかは、全く分かりません。
ただ、どうも今回の女性化学者を祭り上げ、追い込んで行く世情は、
中世の「魔女狩り」を見ているようです。

多分、この方は、魔女狩りの前世があるのでしょうね(笑)

男女平等が叫ばれて、知性と体力がある女性なら、社会の地位を
確立できる時代になりました。

ただ、まだまだそれは男性原理を武装した女性に限られます。

問題は、「かっぽう着」なのです。

お母さんの象徴である「かっぽう着」は、女性原理の象徴です。

女性原理が頂点に立とうとすれば、まだまだ根底に男性原理を
隠し持っている社会は、無意識に追い落とそうとしますよね、
難癖つけながら。

また、今回のなんたら細胞の作り方が、どうも魔女っぽい(笑)

遺伝子で初期化するなどの複雑な最新技術を使わずに、単純に酢の
溶液に浸すだけという、どうも大鍋に薬草を入れて魔法のスープ
を作っているようなイメージを喚起してしまうのです。

中世の魔女狩りの根源にあるのは、男性原理(近代科学的思考)
による女性原理(自然や大地に対する信仰)の完全なる征服なの
ですね。

どうも今回の状況は、「不正だ!不正だ!あいつは魔術で人を
惑わした!」と民衆が叫びながら、地に根ざした(ハーバリストなどの)
自然科学者であったうら若き女性を血祭りにあげ、火あぶりにした
人類の記憶を呼び覚ましてしまうのでしょうね!

最後にコピペ問題について一言。

「あなたがたの中でコピペをしたことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」

って確か偉い人が言ってたっけ(笑)



 

22的転換点

今年も6月22日で無事、年を1個とりました。

43ちゃいになりました。

別にお祝いコメントが欲しくて書いているのでは
ありませんよ(笑)

今年の誕生日は、なんというか、ものすごいエネルギーの
転換日というか

21日夏至
22日富士山の世界遺産登録決定
23日スーパームーン

というように、地球の盆と正月が一緒に来たような
3日間でした(笑)

ところで、ユネスコってのは、「富士山=不二=22」
ってことを知っていたのでしょうか?

22日に富士山の世界遺産登録を決めるなんざ、なんという
小粋なことをしてくれるのでしょう。

富士山というのは、地球における不二(二元性の統一)の
シンボルです。

それが「22」という次元を超えるシンボルの日に世界に
登録される訳ですから、本当に小粋ですよね。

しかも、今年は前日が「夏至」、後日が「スーパームーン」
という、太陽と月の象徴的なイベントがあったわけです。

まさに昼と夜という二元性が、「22(不二)」で持って統合
されるわけです。

まぁ、これはスピ系の世界では、アセンション(次元上昇)
の何らかのサインとしか思えないでしょうね(笑)

ともあれ、いよいよ世界は、2元性の統合の時代に入って来ます。

そんな日が誕生日だった自分もいよいよ新しい動きの時代に
入っていく予感がしています。

そして、22日当日は、なぜか「広島」にいました。

分裂の象徴の都市で、統合の象徴の日を迎える。

なんともすべてが、笑っちゃうぐらいにわかりやすく仕組
まれてる。

みなさん、地球のエネルギーの変化で、眠かったり、
ダルかったり、やる気がでなかったりするかもしれません。

また、急激に生活のパターンを変えざるおえない状況に
なったりするかもしれません。

これらは東洋医学でいうところの瞑眩や好転反応なのでしょう。

梅雨が晴れるころ、いよいよ身は軽くなり、時間を感じなくなり、
世界がとても静かに感じるようになりますよ。

世界はますます激動の時代になるのに、まるで、この世界が
自分とは関係のない別の世界に感じるように。

そんなわけで、今年も私は、激動の世界を波乗りするかのように
飄々と生きていきたいと思います(笑)

皆さん、よろしく〜。



黒ねこのヨミ

駅からの帰り道にいる二匹の仲良しねこは、この道を
通る人たちにとって誰もがこころを癒される存在だ。

僕ら夫婦もこの駅に移り住んでからの2年半、二匹の
ねこにウリとヨミという名前を付けて、毎日のように
会うのを楽しみにしている。

どこかの家の外ねこなのだろうが、人懐っこく、撫でて
やると身体を擦り寄せてミャーミャーと愛くるしい挨拶
をしてくれるのだ。

そんな二匹のねこのうち、黒ねこのヨミが、数ヶ月前
に首の後ろに大きな怪我をしていた。

道を通る人々は、「どうしたのかしら?」と心配し
早く治って欲しいと誰もが祈っていた。

僕らも、いつもの様に身体を摺り寄せてくるヨミを
元気づけ、手当療法を施したりした。

ところが、治りかけても、患部を地面に擦り付けて
しまい、ますます化膿していくのだった。

そして、数週間前からヨミの姿が見えなくなった。

来る日も来る日も、ヨミの姿を探すが、時々寂しげな
ウリが一人で遊んでいるだけだった。

さすがに心配になったうちの奥さんが、ウリに餌を
やっているおばちゃんに、黒ねこのことをたずねて
みた。

おばちゃんは、親切に答えてくれた。

ヨミは、患部の化膿が悪化して、今、長野で療養中
なのだと。

そして、その怪我は、誰かのいたずらで、火の付いた
タバコを擦り付けられて、火傷したものだったそうだ。

僕ら二人は、それを聞いてまずヨミが無事であること
にとても安心したと同時に、人間にそんなひどい
いたずらをされて、なお毎日変わらず、僕らと戯れて
くれたヨミの姿を思い出して涙が止まらなかった。

ヨミ、こんな愚かな人間たちを許してくれてありがとう。

人間は、差異な中でしか、自分の存在を証明することが
できない。この差異の世界で、充たされない者は、
自分より弱いものを創出し、区別し、差別し、虐待する
ことでしか、生きている実感を得られない。

あるいは、強い者を崇め、依存することで。

そして、この差異の世界から抜け出た者しか、本当の
幸福と平安を知らない。

でもね、ヨミ。

この地球で、その差異の世界から抜け出る者なんて、
ほんの僅かしかいないんだ。

ほとんどの人が、特別な自分を証明するために、特別で
ない人や物を創り続けている。

ヨミは、そんな充たされない人間の感情のはけ口を、
その小さな身体で受け止めて、なお許してくれている
んだね。

早く元気になって、また、この道を通るみんなのもとへ
戻ってきてね。

ヨミやウリの無邪気さが、報われるような地球に、いつか
していくからね!



あやしいですけど、それがなにか?

インターネットの普及、とりわけ検索技術のレベルが
高くなるというのは、思わぬ被害(?)を受けるもので
ある。

このブログに代表されるように、私はこの十数年、
いわゆるマイナー、オルタナティブ、代替、マイノリティ 
といった、メジャーで社会的に正当な世界とは、正反対の
世界で生きてきました。

いわゆる「あやしげ」な世界です。

科学では証明できないし、一歩間違えれば、「宗教か!」
「エセ科学!」などと罵らせるような世界です。

でも、今、表の原理だけで、価値付けられる現代社会
の行き詰まりには、絶対に必要不可欠なものであるという
信念を持って、取り組んできた訳です。

ただ、やっぱり受け入れられるには時間が必要だし、
押し付けるつもりも毛頭ないのです。

だから、親、兄弟にも自分がいる世界の話などしたこと
ないし、ほそぼそと、ブログなんかでその世界の人たち
とネットワークしていただけなんです。

ところが、最近、実家とか帰ると。

母「◯◯ちゃん、こないだの記事読んだわよ」

兄「おめ〜、あやしいよ」

父「お前、なんとか22って言うんだって…」

妹「実は私も読んだことあるの…。(赤面)」

私「・・・・・・・・・・(冷汗)」

その都度、しどろもどろで、冷汗流しながら、なぜか延々と
言い訳とかして、もう大変なんです(笑)

昔は、こんな弱小ブログ検索にも引っかからないし、ましてや
自分の本名なんかで、辿り着くことなかったのですが、最近の
検索技術の進化やインターネットの普及が、全くもって裏の活動
をし難くしていますね。

多分この分だと、親戚や旧友、一般社会向けの仕事関連の人達
にも、完全にバレてるね(笑)

まぁ無駄な抵抗ですが、facebookにはリンクしないようにして
いるのですけど・・・。

ともあれ、白日の元に晒されているような、木っ端つかしい思い
の中では、なかなか筆も進まないですよね(笑)

いっそのこと引越しして、出直そうとも考えたのですが、これも
時代の流れ、もしかしたら、一般社会の象徴である家族が読む
ということは、私が生きてきた世界観が、やっと社会に受け入れられ
ようとしているのかもしれません。

「あやしい」とか「不思議」とか「トンデモ」とか、科学や一般常識
では証明できないものや感覚って、実際人間には必要なんです。

なぜかって、それこそがイマジネーションの元であり、豊かな
人生を送るための創造の源だからです。

それらを切り離した現代社会というのは、いずれは枯渇するのです。

それはそうでしょ。
わかりきった価値観の中でグルグルしてたら、いずれは行き詰まり
ます。

自分を超えた世界を積極的に認める。つまり不思議に思えるもの、
納得行かないものを積極的に認めることは、自分の未知なる可能性
を積極的に認めることになるのです。

だから恥ずかしく思うことはないのです。

「あやしいですけど、それがなにか?」

と大腕ふって生きて行きましょう!

って、結局言い訳してないか(笑)



レ・ミルゼ!ラブル 【ネタバレ注意】

世界的に話題の映画「レ・ミゼラブル」。
皆さんはもう観ましたか?

私は2回見ました。ちなみにうちの奥さんは3回(笑)

いやいや、なんて言うかストーリーは突っ込みどころ
満載なのですが、不思議に引き込まれて、最後は全身
のあらゆる浄化が始まるような、所謂、細胞レベルに
働きかける見事な映画でした。

まぁ、ヨーロッパ的カルマがない人には、単に大げさな
西洋歌劇に見えるかもしれませんが、「キリスト教」
「律法」「貧民窟」「娼婦」「革命」なんかのキーワード
に引っかかる過去生をお持ちの方にはお勧めです(笑)

そして、この映画に通底する「神の愛」、「許し」、
そして「罪悪感の消失」とは、今この時代にとても
必要なメッセージではないでしょうか。

人や世界を変えることができるのは「神の愛」、つまり
「許し」だけである。

今この世界は、「決して許してはいけない」という
様々な立場からの正当化によって、お互いがお互いを
攻め立てる興奮状態です。

主人公ジャン・バルジャンが19年の服役から釈放され
ながら、世間に受け入れられない憤怒から、「決して
奴らを許さない」と叫ぶ興奮状態と同じです。

失望から自暴自棄になるジャン・バルジャンを救うのが
「神の愛」を体現するミリエル司教です。

ジャン・バルジャンは、司教から許されることによって
生まれ変わります。

それは、興奮状態にあったジャン・バルジャンが
「銀の燭台」に象徴される神の一筋の光を受け取った
ということです。

そして、ジャン・バルジャンは、自己の罪悪感と葛藤
しながら神から受け取った「許し」を、今度は自分の
人生で実践しながら体現していくことになります。

主人公を追い回すジャベール警部とは、まさにジャン
バルジャンの罪悪感の投影である影そのものです。

そして、財産や市長という名誉、最後はコゼットという
「特別な愛」というエゴの象徴を一つ一つ手放していく
ことで、本当の「神の愛」に目覚めていきます。

私は、この映画のクライマックスは、革命の最中、
一時の休眠をしているマリウスを讃え、祈るジャン
バルジャンの姿にあると思います。

ジャン・バルジャンの背後に映る「一つの目」は、
まさに分裂のない「神の視点」に立つジャン
バルジャンの心象を象徴的に映しだしています。

ところで、この目をフリーメソンの象徴である
「プロビデンスの目」として陰謀論につなげるのは、
ちょっと無理があります。

確かに、原作者であるビクトル・ユーゴーは、
フリーメソンであるという噂もありますが、ここは
やはりジャン・バルジャンが、コゼットを奪うかも
しれない青年に生きて帰ることを祈る自我を超えた
視点、つまり「神の視点」に立ったことを高らかに
歌っているのです。

そして、ジャベール警部の自殺です。これは、あまり
にも唐突に思えるかもしれませんが、もともとジャベール
は、ジャン・バルジャンの罪悪感の影で、そもそも存在
しないのです。

つまり、ジャベールの自殺は、ジャン・バルジャンが
自己の罪悪感を許しによって完全に消失させ、神の平安
を取り戻す象徴で、それはジャン・バルジャンのエゴの
自殺なのです。

ですから、エンディングの天国で、ジャベールがいない
のは、地獄に落ちたからではなく、ジャン・バルジャン
とジャベールが完全に統合されているからなのです。

「レ・ミゼラブル」は、ジャン・バルジャンが司教から
受けた「神の許し」を実践し、エゴの殻を一枚一枚
脱ぎ捨て、最後に罪悪感を克服し、神の永遠の平安で
ある天国にたどり着くという壮大な叙事詩を感動的に
謳いあげているのです。

それは、今の私達に細胞レベルで語りかける「神のメッセージ」
そのものなのですね。

人や社会を変えることができるのは、怒りや制裁や法や規制
ではない。

人や世界を変えることができるのは「神の無限の愛」、
つまり「無条件の許し」だけである。

今こそ人類が気づかなくてはいけないメッセージですね。

いやいや、久々に感動した映画「レ・ミゼラブル」。

もう一回くらい

見るぜ!ラブル(笑)



生+死=命

最近また「いじめ」や「自殺」の問題で盛り上がってますね。

「命を粗末にしちゃいけない」 

こういう時によく使われる言葉ですよね。

さて今日はこの「命」ということについて考えて見たいと思います。

「命を大切にする」ということはどういうことなんでしょう。

「命=生きていること」

つまり、「生きていることが大切」というのは、誰でも納得する
ところでしょう。

そして、その裏には「死んだら最後、死んでしまえば終わり」という
ある意味絶望的な気持ちが潜んでいることもまた、誰も否定できない
でしょう。

「死んでしまったら、命は終わる」

でも、これは単に近代の物質科学が生み出した「命=肉体(生)」
という比較的最近の考え方なんです。

でも、古代の日本や東洋には、もう一つの生命観っていうものがあって、
これを単純に図式化すると、こんな感じになります。



生命


この図式を公式化すると「命=生+死」ということになります。

つまり、「命」には「生きている状態」と「死んでいる状態」が
あるということです。

別の言い方をすれば、生きてようが、死んでようが、「命」は
「命」であるということですね。

この命の本質を教えようとした人が、イエス・キリストです。

イエスの神話は、「十字架による磔刑」に目を取られがちですが、
大切なのは「復活」なんです。

つまりどんなにイエスの肉体を切り刻もうとも、イエスの本当の
命は傷つかない。

イエスは「生死」というこの物質世界の幻影を越えて、決して
消滅することのない「永遠の生命」を教えるために「復活」した
のですね。

だから、イエス(永遠の生命)は、自分(物質世界の幻影である
肉体)を切り刻もうとする者を許せるのです。

本当に命を大切にするということは、この「生死」を超えた
永遠の生命を生きることだと思うのです。

マクロビオティックでは、これを現象世界の「陰陽」を見定めて
「無限の世界」に生きるという言い方をします。

現象世界の「生と死」とは、オセロゲームにおける「白と黒」
みたいなものです。

表裏一体で、いつでも入れ替わるものです。

生きていようが、死んでいようが、実際どっちでもよいのです。

だから「遊び」なんですね。

「遊ばざる者食うべからず」

無限の世界に生きる者、永遠の生命を生きる者にとって、現象世界
は、実際単なるオセロゲームなんです。

しかしながら、この考え方は、教育で徹底的に「物質科学思考」を
叩きこまれた人たちには、到底受け入れがたいものです。

「宗教か!」と弾圧を受けるのが落ちですね(笑)

でも実際、この考え方が理解されない限り、「いじめ」も「自殺」
もなくならないんだなこれが・・・。



モラトリアムの40代

2012年6月22日で、42歳になりました。

別にお祝いのメッセージが欲しい訳ではありませんよ(笑)

ただ、今年の誕生日は、何か大きなエネルギーの転換点では
ないかと感じたのです。

そこで、数秘分解(笑)

2012(5)+6+22

とりあえず「22」は残したいので、5と6を足すと「11」

すると

11+22=33

う〜ん、ゾロ目のストレート…。
まさに、現実世界と夢の世界が直結してしまう並びですね(笑)



僕は、20代のいわゆる青年期を90年代に過ごして来ました。
90年代の衝撃的な出来事の一つにオウム事件がありました。

そのオウム事件が、偶然か必然か、いま大きな転換点に
差し掛かっています。

当時、オウム事件に直面して、何が驚いたかというと、それは
僕にとって凶悪犯罪とかではなく、何よりも、実社会の外側で
リアルに生きている人達がいるという事実でした。

僕は、20代の半ばいわゆるフリーターのはしり、現実社会に
自分の居場所を見出すことのできないモラトリアム人間でした。

少年から青年にかけて、客観的に見てきた「社会」には、なんの
興味も持てず、社会の一員になる第一歩である「就職」もする気が
なく、プロや専門家にもなる気のない音楽や学問を隠れ蓑に、細々
とアルバイトをして生活していました。

社会に対する冷めた気持ち、それと同時に社会の外側をウロウロ
する焦燥感…。

そんな中で起きたオウム事件でした。

僕は、オウム事件に直面することで、この日本で社会の外側に
別の世界を打ち立てて、しかもそこでリアルに暮らしている
という映像に衝撃とある種のワクワク感をいだきました。

オウムの夢は、「現実世界」を攻撃することで、逆に「現実世界」
に吸収されてしまいました。

それは、今考えれば当然のことですね。

でも、当時の僕は、ある意味オウム事件で視界が一気に広がった
のかもしれません。

「社会」、そしてそれに出ることのできない「自分」という
葛藤から、もしかしたらこの世界には、見えていないだけで
多様な世界があるのかもしれない。

そこから僕のオルタナティブな世界の探求が始まったのです。

そしてそれは、消極的に選択していた「フリーター」や「モラトリアム」
といったらライフスタイルが積極的な選択になった瞬間でした。

そしてあれから月日が流れ、僕は今40代を生きています。

「フリーター」は「フリーランス」になり、「モラトリアム」は、
「何者でもない自分」という確固とした信念になりました。

そして、今年の誕生日。

僕は、オウムが「現実世界」を攻撃することで自分たちの夢を現実に
しようとした逆の方法で、自分の夢の世界を確立したいと思います。

それは、攻撃ではなくゆるすこと。

相容れないと思わしき、この世界を完全にゆるすことで、僕はこの
現実世界に夢の世界を打ちたてようと思います。

11、22、33という天使達に導かれながら。




原子力と発酵力

う〜ん、気がつけば5月も終わり・・・。
あやうく、月一本は書くというノルマも破るところだった(笑)

さて、今回の話題は「塩麹」。

えっ、い、いまさらっすか〜。

いやいや、別に「塩麹」にはまってるわけではないのです。

なんで今「塩麹」なのかってのをずっと考えていてね。


結局、アセンションと結びつけることにしました(笑)

だって「麹」は「高次」だから・・・。



さっ、冗談はさておき

今、僕らの前には、二つの大きな力の使い方が提案されている
と思ったのです。

一つは「原子力」、そしてもう一つは、この「塩麹」のブーム
に代表される「発酵力」です。

最近は、「塩麹」にかぎらず、発酵食品全般が流行っていて、
糠漬けにはまる若い女子などは「発酵女子」なんて呼ばれる
そうですね。

そもそも、「発酵」ってなんでしょう?

「発酵」とは、ある種の「モノ」を、自然界の微生物などを利用して
別の「モノ」に生まれ変わらせるという感じでしょうか。

つまり、「発酵力」とは、周辺環境や自然界をうまく取り込んで、
新しいエネルギーを発生させる力とも言えます。

一方「原子力」とは、ある種の「モノ」を自然界から遮断して、
分裂させることによってエネルギーを発生させます。

この「原子力」と「発酵力」を対比させてみると、力の方向性が、
とても対照的に見えると思うのです。

最近、世界で自爆テロが頻発したり、車が子供たちの集団登校に
突っ込んだりの事件が多いのは、福島の原発事故と実は構造が
同じなのです。

「原子力」というエネルギーは、周辺環境や自然界から「自己」を
分離して、高めていく「個別性」のエネルギーの象徴なんですね。

この力を実感するためには、逆説的に、分離した周辺環境や自然界
を破壊することに行き着くのは実は、自然な流れなんです。

自分の力を証明するために、周囲に破壊的なエネルギーをまき散らす
人って現代社会にはたくさんいますよね。

一方、「発酵力」というエネルギーは、周辺環境や自然界に「自己」
を溶けこませて、高めていく「融合性」のエネルギーの象徴ですよね。

結局、自分の力を証明するためには、周辺の人たちの力を活かして
行くしかないのです。

そして、周辺の微生物を活性化するために、どんどん自己を与えて
いくことになります。

発酵食品が好きな人って、なんか自分で作ったものをどんどんくれる
んですよ(笑)

周りが喜んでくれることによって、また創造力が高まるでしょうね。

という訳で、「塩麹」のブームと「原子力」は実は不可分なんです。

これは、人類が「力」の使い方の転換点に差し掛かっている「印」
なんですね。

「発酵」は、「発光」ですよね。

「核」の光は、分裂と破壊のエネルギーですが、

「発酵」の光は、融合と創造のエネルギーなんでしょう。

そして、人類の「発酵」が、「アセンション」なのです。

周辺から分離して、「個」を高めるよりも、周辺に溶け込んで
「全体」をシフトする方が、俄然楽しい世の中になってきたのです。

「麹」は、「高次」、「発酵」は、「発光」

日本の伝統的な文化には、「アセンション」のヒントがたくさん
含まれていますよね(笑)


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